社会個人主義とは

(1) 他人との協調を、強要しても、されてもいけない。


社会貢献が個人の目的ではなく、個人の満足感を高めるために、あくまで自発的に社会貢献をする個人を輩出する

 

個人が自分の喜びを得るために、自らの選択で社会性のある行動をとらねばならない。そのためには、人とのふれあいからの喜びを体験させる教育が非常に重要となってくる。

 

(2) 個人が自分の人生を自ら決断し、最大限の潜在能力を発揮できるために、個人の自由を最大限に尊重しなければならない。

 

そのためには、多様な価値を認める寛容な社会が必要不可欠となる。特にマイノリティー(少数派)や社会的弱者に平等な機会を提供することは最低条件である。

 

(3) 個人の自由は、他人の自由を奪わないかぎり保証される。

 

「みんなのため」という理由だけで、個人がいかなる犠牲にもなるべきではない。ただし、他人の自由を奪う行為をした者は、それ以上の自己の自由を得る権利がなくなる。

 

(4) 他人の自由も最大限に尊重する。

 

自分と異質なものを認めることで、社会は多様化する。それは必然と、多様な個性を輩出する。       

 

(5) 結果として個性を多様化するのが目的ではない。

 

個性が多様化されるのは、あくまで副産物としてのこと。重要なのは、個人個人が充分に満足した生きかたをすることで、幸福度の高い人生をおくること。

 

(6) 「利己主義」と「個人主義」は決定的に違う

 

利己主義ではなく、自己の自由および権利と同時に他人の自由と権利も尊重するという「個人主義」を目指す。個人主義とは、自立した個を確立するものでもある。


(7) 個人が最大の幸福感を得るためには、個人の潜在能力を最大限に引き出すと同時に、その能力が社会から最大限に認知されることが重要

 

そのふたつが達成された時に、非常に高い幸福感を得ることができる。


(8) 人に認知され、感謝されること、そして人に感動やインスピレーションを与えることで、大きな喜びを得られるという体験を積極的に学べるように、社会が多様な環境を提供する。

 

社会と調和した一体感に、喜びを感じることが必要。

 

(9) 「市民意識」「均衡のとれた社会」「自分の人生を自分で決められること」が、幸福な社会をつくる三原則

 

個人が積極的に社会参加すれば、市民意識は高まる。各個人が最大限の能力を発揮して参加する社会は、個人および社会にとっても非常に有意義なものとなる。

 

(10) 個人の権利と自由を追求する最終的な目的は、自発的に社会性のある行動をとる個人をひとりでも多く輩出すること

 

ただし、社会性のある行動には、無限大の多様性を認める必要がある。

 

(11) より多くの個人が最大限の潜在能力を発揮して最大限の社会貢献をすることで、個人の幸福度がより高いものとなっていき、その集合体である国家の幸福度も必然と高くなる。

 

(12) 幸福度の高い個人を輩出することが国家の至上命題であり、国家の存在意義でもある。

 


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社会個人主義とは、個人が自己の潜在能力を最大限に発揮しながら、なおかつ最大限に社会貢献をすることであり、結果として個人の総体である社会全体の幸福度が最大値へと上がることを目標とする。これは単純な功利主義的な発想ではない。個人の幸福度が高くなることが目標であるため、全体の効率ために個人の自由が犠牲になることがあってはいけない。あくまで個人の自由を優先させることで、最終的に全体へ貢献するという順序である。

 

古代ギリシャの哲学者アリストテレスが提唱した「エウダイモニア」という概念がある。人が、その可能性を全面的に実現した時の幸福感のことだ。アリストテレスは、こう語っている。

 

幸せは行為の結果である。幸せは偶然や神の贈り物ではなく、自分の可能性を最大限に活用した人に与えられる。優れた将軍は部隊に最高の働きをさせ、腕のよい靴屋は手持ちの革で最高の靴をつくりだす。同じように、賢い人間は自らの素質と与えられた条件の下で最高のものをつくりだす。そのような積極的な人生に歓びと満足の秘密がある

(シュテファン・クライン著 平野卿子訳 『幸せの公式』より引用)

 

幸福な人生を送るためには、個人の能力が最高の形として成長させることができる環境として、お互いの自由と権利を尊重しあい、多様な価値観を容認することが絶対条件である。自己の存在意義もしくは生きがいを明確に認識することも、同時に重要なこととなる。

 

心理学者マズローが提唱した「欲求階層説」のいちばん上に位置する「自己実現欲求」は、潜在能力を最大限に引き出すことで満たすことができる。そして個人の存在意義や生きがいは、常に個人の意識の外側に存在するもの、つまりモノやヒトという環境との関連性からつくりだされる。したがって人から認知されることは個人に大きな存在意義を与え、認知する人の数が多いか、もしくは認知される度合いの強さによって、存在意義を感じる度合いも変化してくる。

 

たとえば、以下のような状況が当てはまる。

 

● 不治の病を宣告された患者。ある医師が、長年の経験と技術を結集してその患者の命を救う。患者とその家族は、医師へ絶大な感謝を表す。


● 迷宮入りが危ぶまれた、凶悪な殺人事件。ひとりのベテラン刑事がついに真犯人を逮捕する。そして刑事から、逮捕の報告を受ける遺族。

 

●「私の人生を変えた一冊でした」という、読者からの手紙を受け取った文筆家。

 

● 会場の観客を、爆笑の渦へと誘った漫才師。

 

●「こんなに美味しいのは初めて」と、舌鼓を打つ顧客を前にする料理家。

 

● かつての教え子から「先生のおかげで、自分の人生を歩むことができました」と告げられる恩師。

 

●「もう涙が止まりませんでした」と、観客に伝えられる映像作家。

 

● 引きこもりから立ち直った青年に「生きる勇気がわきました。感動をありがとう」と言われた若き冒険家。

 

● 熱狂する聴衆を前に、全身全霊で熱唱する歌手。

 

●「こんなに奇麗になるとは思ってもいませんでした」と、大満足の顧客を前にするカリスマ美容師。

 

●「絶対にまた来ます」と、しっかりと目を見て約束する宿泊客を、玄関口のロビーへ送り出すホテルマン。

 

金メダルを獲得したスポーツ選手やノーベル賞を受賞した科学者は、世界へ自己の存在を最大限に認知される。そこで存在意義の認識も最大となる。そして存在意義や生きがいを感じる強さも、他から認知される度合いに比例して大きくなってくる。また、ひとりからの感謝であっても、命を救ってくれた人に対する以上の感謝は考えにくい。そこで感謝された当人にも、それ以上ないといえるほど高い認知となり、ほぼ最高レベルの強い存在意義を感じることができるだろう。つまり簡単にすると、次のようにケースに分かれる。

 

1) たったひとり、もしくは少数の人間から、心の底より感謝される

2) 不特定多数の人々から尊敬され、感謝される

3) 世界中から絶賛の嵐が吹き荒れる

 

以上のどの場合でも、大きな生きがいを与えてくれることは間違いない。そこで、どのケースがより好ましいかということを決めることはできない。あくまで個人の能力と好みが密接に関わってくるので、どのケースを求めるかは、個人の判断次第である。ただし、もう一点重要なポイントは、どのようにしてその行為を達成したかである。つまり自分にしかできない高度な技術と経験の結集としての行為を他人から感謝される場合と、自分の何気ない行動が他人に感謝される場合とでは、本人の満足度に違いがある。それは、特殊な技術を用いて他人に感謝されるならば、その技術を使って何度も何度も喜ぶ人に合うことができるが、誰にでもできる行為であったならば、そのような機会に巡り会うことは自分の努力では限界があるだろう。いずれにせよ、前述したような例は、本人の能力が最高の形で発揮された行為が、他人に最大限の影響を与えた場合である。

 

個人の多様性を認め、社会との関わりの中から個人それぞれの得意な能力を用いて多様化された社会活動をすることで、社会から認知され、個人が究極の至福感・充実感を得ることができる。個人の幸福感と社会との一体感には密接な関係があり、個人が自己実現とともに最高潮の充実感を得る瞬間とは、個人の能力が最大限に発揮された行動が大きな社会貢献をした時、つまり人から最大限の感謝や賞賛を受ける時である。そのためには、個人の自由に寛容でありながらも、自由の使い方を社会性のある行動へと導いていく必要がある。

 

社会個人主義は、個人が幸福追求の手段として社会貢献を勧めるのであり、社会貢献が個人の目的ではない。個人の目的は、あくまで幸福な人生を送ることである。そして幸福な人生には、社会との密接な関わりが不可欠である。したがって自己の能力を最大限に認めてくれる自発的な社会参加こそが、社会個人主義の根幹である。集団主義的な社会からのプレッシャーではなく、あくまで自発的に、個人の自己実現の一部に社会貢献がある個人を輩出することを目指すのである。